心に灯がともる音
梅雨明けを思わせるような、力強い日差しがアスファルトを照りつける昼下がり。私は、当院が誇るマッサージ師の鈴木先生(仮名)と共に、一台の車にあるアパートへ向かっていました。数日前、市のケースワーカー様から一本のお電話をいただいたのが始まりでした。「生活保護を受けている方で、長年、足に障害を抱えていらっしゃる方がいます。一度、お試しでマッサージをお願いできないでしょうか」。電話口から聞こえる声は、担当されている方への深い想いに満ちていました。
「高橋様(仮名)、58歳。幼い頃の病気が原因で、下肢に麻痺が残り、日常生活では車いすを利用されている」。事前にいただいた資料は簡潔でしたが、その短い文章の裏にある、数十年にわたるご本人のご苦労を思うと、自然と身が引き締まる思いでした。
「先生、高橋様は我々のような外部の人間が家に来ることに、少し緊張されているかもしれませんね」
後部座席に積んだ折り畳みの施術用ベッドを確認しながら、私がそう言うと、穏やかな笑みを浮かべた鈴木先生が頷きます。
「ええ。だからこそ、まずは安心してもらうことが一番大切ですね。体の声を聞く前に、心の声に耳を傾ける。いつも通り、丁寧にいきましょう」
鈴木先生は、技術はもちろんのこと、その温かい人柄で多くのご利用者様から絶大な信頼を得ている、私たちの宝のような存在です。先生と一緒なら大丈夫。そう確信し、目的のアパートの駐車場に車を停めました。
チャイムを鳴らすと、少しの間を置いて、「はい」という少しだけくぐもった声が聞こえ、ゆっくりとドアが開かれました。そこにいらっしゃったのが、高橋様でした。日焼けした精悍な顔つきですが、その瞳の奥には、初対面の私たちに対する緊張と、ほんの少しの期待が入り混じったような複雑な色が浮かんでいるように見えました。
「こんにちは!訪問マッサージケイロウの山福(仮名)です。こちらがマッサージを担当させていただきます、鈴木です」
私たちが明るく挨拶をすると、高橋様は「ああ、どうも。わざわざすみません。どうぞ…」と、車いすを少し後ろに下げて、私たちを招き入れてくださいました。
通されたお部屋は、決して広くはありませんでしたが、隅々まで掃き清められ、物が整然と置かれていました。高橋様が、日々の生活をいかに丁寧に送られているかが伝わってきて、胸が温かくなるのを感じました。
「改めまして、本日はお試しマッサージの機会をいただき、ありがとうございます。まず、いきなりマッサージを始めるのではなく、今のお体の状態で一番おつらいところや、お困りのことなど、何でも結構ですのでお聞かせいただけますか?」
私がそう切り出すと、高橋様は少し視線を落とし、ぽつり、ぽつりと話し始めてくださいました。
「もう、この足とは生まれた時からの付き合いみたいなもんでね…。痛いとか、そういうのとは少し違うんだけど、年々、重く、冷たくなっていく気がするんですよ。特に夕方になると、パンパンに張ってしまって…」
車いすでの生活は、私たちが想像する以上に上半身へ負担をかけます。腕の力で体を支え、移動するため、肩や背中は常に緊張状態にあります。
「足だけじゃないんです。最近は、肩もゴリゴリで、夜中に目が覚めてしまうこともあってね。まあ、仕方ないんですけど」
諦めたように笑うその表情に、私たちは「仕方なくなんかないですよ」という想いを込めて、深く頷きました。
「よく分かりました。ありがとうございます。高橋様のお体は、毎日ご自身を支えるために、本当に頑張っていらっしゃるんですね。今日は、その頑張ってくれているお体を、少しでも楽にできるよう、鈴木先生が心を込めてマッサージさせていただきますね」
鈴木先生が高橋様の車いすの隣にそっと膝をつき、まずは足首に優しく触れました。
「高橋様、少し失礼しますね。…ああ、やっぱり少し冷えていますね。血の巡りが滞りやすくなっているのかもしれません」
その声は、まるで壊れ物に触れるかのように優しく、穏やかでした。高橋様の肩から、ふっと力が抜けたのが分かりました。
施術は、その冷えた足先から始まりました。指の一本一本を丁寧にほぐし、足裏をゆっくりと刺激していく。そして、ふくらはぎ、太ももへと、滞った流れを促すように、リズミカルに、しかし力強く筋肉を揉みほぐしていきます。
「うわ…、そこ、すごく硬くなってる…」
高橋様が思わず声を漏らします。
「そうですね。長い間、あまり動かさないでいると、筋肉はどうしても硬くなってしまいます。でも大丈夫ですよ。こうやって外から刺激を与えてあげると、血の巡りが良くなって、少しずつですが、筋肉も柔らかさを取り戻していきますからね」
鈴木先生は、体の状態を分かりやすい言葉で説明しながら、施術を進めていきます。それは、一方的な施術ではなく、高橋様との対話そのものでした。
下半身の施術を終え、今度は上半身へ。車いすに座ったままで負担なく受けられるよう、姿勢を整え、まずは腰、そして背中、肩甲骨周りへとアプローチしていきます。
「うわっ!先生、そこです!そこ!」
特に凝り固まっていた肩の部分に指が入ると、高橋様は驚きの声を上げました。
「毎日、この腕と肩で全体重を支えていらっしゃるんですから、ここに疲れが溜まるのは当然ですよ。本当によく頑張っていらっしゃいますね」
鈴木先生の労いの言葉に、高橋様の目元が少し潤んだように見えたのは、気のせいではなかったと思います。
約30分のお試しマッサージ。最初は緊張で強張っていた高橋様の表情は、施術が進むにつれてどんどん和らぎ、終わる頃には、まるで温泉にでも浸かった後のような、穏やかで血色の良いお顔に変わっていました。
「…すごい。体が、なんだかすごく軽い。特に足が、自分の足じゃないみたいにポカポカしてる…」
ご自身のふくらはぎを何度も撫でながら、高橋様は信じられないといった様子で呟きます。
「こんなに丁寧に自分の体を触ってもらったのは、本当に初めてかもしれない…」
その言葉が、私たちにとっては何よりの報酬でした。
「高橋様、もしよろしければ、今後も継続してマッサージを受けてみませんか?お医者様に『マッサージが必要ですね』というお墨付きの書類(同意書)を書いていただければ、健康保険が使えます。高橋様の場合は、お手続きをすれば自己負担なく、今日のように定期的にお伺いすることができます」
専門用語を避け、制度の仕組みを丁寧にご説明すると、高橋様の瞳に、さっきとは明らかに違う、力強い光が宿りました。
「…本当ですか?こんなに楽になるなら…。ぜひ、お願いしたいです。これからも、お願いします」
深く、深く、頭を下げてくださる高橋様に、私たちは胸がいっぱいになりました。これは単なるマッサージの契約ではありません。高橋様のこれからの生活に、私たちが寄り添っていくという、大切な約束です。
帰り際、玄関まで見送ってくださった高橋様の「ありがとう、先生。また来てくださいね」という声は、来た時とは比べ物にならないほど明るく、張りのある声でした。
アパートを後にし、車に乗り込む。夕暮れの光が差し込む車内で、私は鈴木先生に語りかけました。
「先生、よかったですね。高橋様、本当に喜んでくださって」
「ええ、本当に。でも、まだまだこれからですよ。継続は力なり、ですから。一回で楽になるのはもちろんですが、これを続けていくことで、高橋様の生活の質、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)が少しでも上がっていく。夜、ぐっすり眠れるようになったり、日中の活動が少し楽になったり。そのお手伝いができるのが、この仕事の一番のやりがいですから」
その言葉に、私は改めてこの仕事への誇りと使命感を強くしました。すぐにケースワーカー様へお電話をし、高橋様が継続を希望されていること、そして今後の手続きについてご報告とご相談をさせていただきました。電話の向こうで、ケースワーカー様の安堵したような、喜びに満ちた声が聞こえてきます。
私たちは、ただ体をほぐしているのではありません。ご利用者様の心に寄り添い、痛みを分かち合い、明日への希望という名の灯をともすお手伝いをしている。高橋様の心にともった、あの小さな、しかし確かな灯を、決して消すことのないように。そして、いつかその灯が、ご自身の力でより一層輝きを増していく日まで。
私たちの挑戦は、まだ始まったばかりです。車窓から見える街の灯りが、やけに温かく、そして優しく感じられる帰り道でした。